特集
祝!世界文化遺産 登録
世界遺産としての価値
16世紀末から19世紀半ば世界の他の地域において採鉱などの機械化が進んだ時代に、高度な手工業による採掘と製錬技術を250年以上にわたり継続した、アジアにおける他に類を見ない貴重な文化遺産です。
世界文化遺産「佐渡島の金山」についてはこちらから
ジオパークの視点でみる佐渡島の金山~なぜ佐渡島で金や銀がとれるの?~
佐渡で見られる金や銀は、約2千万年前、大陸が割れ、その陥没地で起こった激しい火山活動によって作られました。大陸に生じた亀裂は広がり、金銀の鉱床はいったん海底に沈みましたが、その後の隆起運動によって金銀鉱床を含む佐渡島が海上に姿を現しました。
佐渡島のジオパークについてはこちらから
佐渡島の金山の歴史と登録までの道のり
12世紀 (平安時代) | 『今昔物語集』に能登の人が佐渡で金を採取したと記録される(西三川砂金山) |
15世紀 (室町時代) | 世阿弥が佐渡に流され、『金島書』を書く |
1542年 (天文11年) | 鶴子銀山が発見される |
1601年 (慶長6年) | 相川金銀山が本格的に開発される |
1603年 (慶長8年) | 大久保長安が佐渡代官になる |
1604年 (慶長9年) | 佐渡奉行所が建てられる |
1621年 (元和7年) | 佐渡で小判の製造が始まる |
1653年 (承応2年) | 京都から水学宗甫が来島し、水上輪の作り方を伝える |
1696年 (元禄9年) | 南沢疎水道が完成する |
1759年 (宝暦9年) | 佐渡奉行所に寄勝場が設置される |
1869年 (明治2年) | 明治政府直営の佐渡鉱山になる |
1872年 (明治5年) | 西三川砂金山が閉山する |
1946年 (昭和21年) | 鶴子銀山が閉山する |
1989年 (平成元年) | 佐渡鉱山が操業を休止する |
1997年11月 (平成9年) | 市民団体による世界遺産登録に向けた運動を開始 |
2006年4月 (平成18年) | 新潟県と佐渡市が連携し、世界遺産登録に向けた取組みを開始 |
2010年6月 (平成22年) | 「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群」の名称で、ユネスコ世界遺産暫定リストに記載 |
2015年3月 (平成27年) | 世界遺産推薦を目指し、国へ推薦書原案を提出(1度目の挑戦) |
2016年3月 (平成28年) | 2度目の挑戦 |
2017年3月 (平成29年) | 3度目の挑戦 |
2018年3月 (平成30年) | 4度目の挑戦 |
2021年3月 (令和3年) | 5度目の挑戦 |
2021年12月 (令和3年) | 国の文化審議会において国内の推薦候補に選定 |
2022年1月 (令和4年) | 政府がユネスコ世界遺産へ推薦することを正式表明 |
2023年1月 (令和5年) | 推薦書再提出 |
2023年8月 (令和5年) | イコモス現地調査 |
2024年6月 (令和6年) | イコモスから「情報照会」の勧告がなされる |
2024年7月27日 (令和6年) | ユネスコ世界遺産委員会で、世界遺産登録が決定! |
「佐渡島(さど)の金山」世界文化遺産登録を祝して
新潟県知事 花角英世
7月27日、インドで開催されたユネスコの世界遺産委員会において、「佐渡島の金山」が人類の貴重な遺産として認められ、世界文化遺産に登録されました。
これまで、「佐渡島の金山」の世界遺産登録を目指し、国や佐渡市、民間団体等の皆様とともに、全力で取り組んでまいりました。その取組が実を結び、「世界の宝」として認められたことを誇りに思うとともに、御支援、御協力いただいた全ての方々に深く感謝申し上げます。
県といたしましては、引き続き、国や佐渡市と連携して、資産の保存・活用にしっかりと取り組み、この素晴らしい遺産を未来に継承するという責務を果たすとともに、国内外の多くの方々から文化遺産としての価値を知っていただけるよう情報発信の強化に努めてまいります。
また、このたびの「佐渡島の金山」の世界遺産登録は、佐渡をはじめとする本県の魅力の認知度を向上させ、多くの観光客を呼び込み、本県の豊富な地域資源をアピールする絶好の機会と捉えております。登録の効果が全県に波及し持続するよう、市町村等関係者の皆様方と連携しながら、佐渡や県内各地の多様な魅力を積極的に発信し、年間を通じた県内周遊の促進やリピーターの獲得に取り組んでまいります。
「佐渡島(さど)の金山」2つのエリアを巡ろう!
相川鶴子(あいかわつるし)金銀山
散策ポイント
このエリアは、きらりうむ佐渡を見学してから、道遊の割戸まで散策するのがおすすめ!
①きらりうむ佐渡
佐渡島の金山の玄関口として、資産の紹介と現地訪問に関する情報発信を行っている施設です。館内の展示室では大型の映像、模型、グラフィック等で資産の価値や魅力をわかりやすく解説します。観光案内所も併設され、ガイドツアーなど現地探訪のための情報提供もしています。
②佐渡奉行所跡
徳川幕府は佐渡奉行を派遣して、鉱山の管理・運営のほか直轄地として島全体の統治にあたらせました。奉行所は拠点となった場所で敷地内には行政・司法に携わる施設に加え、選鉱や製錬・精錬など金銀生産の工場が併設されていました。
③相川上町地区
相川金銀山の鉱山地域南側の尾根上に設けられた鉱山町です。17世紀初め、佐渡代官(のちの奉行)大久保長安は相川に奉行所を設置し、奉行所と採掘場所を結ぶ主要道に沿って規格性・計画性の高い地割りを持つ町の建設を進め、職業別の街区を定めて人々を住まわせました。創建当時の名残が今も残り、鉱山町の雰囲気を伝えています。
※私有地への立ち入り、車両の乗り入れはご遠慮ください
④宗太夫間歩(そうだゆうまぶ)
江戸時代初期の大型の斜坑道を代表するもので、鉱石の運搬や排水作業のために効率が良い傾斜で掘削されています。壁面には手掘りによる鑿(のみ)跡が残っています。狸掘り(鉱脈を探すための小規模な探索坑)や枝分かれする坑道などから、当時の採掘作業の進め方がわかります。
⑤道遊の割戸
国内最大の露頭掘り跡(延長約120m、幅10~30m、深さ74m)です。手作業で鉱脈部分だけを掘り取ったため、山の中央部がV字状に割られたようになっています。18世紀の絵巻にも山が割られたような姿が描かれており、江戸時代にすでに今の姿だったことがわかります。
【番外編】⑥北沢浮遊選鉱場跡(きたざわふゆうせんこうばあと)
この施設では、銅の製造過程で行われていた技術であった浮遊選鉱法を金銀の採取に応用し、日本で初めて実用化に成功しました。戦時下の大増産計画によって大規模な設備投資がされ、1ヶ月で50,000トン以上の鉱石を処理できることから「東洋一」ともうたわれました。
西三川(にしみかわ)砂金山
散策ポイント
中世から江戸時代にかけ、佐渡の砂金採取の中心として栄えた笹川集落。ここは現在も住民が生活する場所です。散策される際は、住民や他の来訪者の迷惑にならないようマナーを守りましょう。
①大山祗(おおやまずみ)神社・能舞台
砂金山の繁栄と作業の安全を願って1593(文禄2)年に建てられた神社です。社殿や関連施設は建て替えを繰り返しており、現在の社殿は1928(昭和3)年に再建されたものです。境内には19世紀後半に建てられた能舞台があります。
②金子勘三郎家
江戸時代後期から1872(明治5)年の閉山まで金山の世話役を務めた金子家の住宅です。世話役は金山役(奉行所派遣の役人)と集落との橋渡しを行い、村人(鉱山労働者)を取りまとめ、「大流し」の作業を差配しました。
※現在、保存修理工事を実施中のため、敷地内への立ち入りはできません
③虎丸山
西三川砂金山最大の採掘場(稼ぎ場)跡です。現在も「大流し」によって掘り崩されたため露出した赤い山肌を見ることができる、砂金山のシンボル的な存在です。江戸時代の絵図には山の上下で採掘を行っていた様子が描かれています。
※落石等の危険があるため、離れての見学をお願いします
「大流し」とは?
堆積砂金鉱床:「大流し」砂金採掘法
西三川地区では、砂金を含む山の地層を掘り崩し、水勢を利用して砂金を採掘・選鉱する「大流し」という独特な採掘法が行われていました。現地には今も導水路・堤・配水路・採掘場・排水路など、「大流し」の全体像を示す遺構が良好に残っています。
Interview
念願かなった世界遺産登録のこれまでとこれから
前 新潟県世界遺産登録推進室長
小田 由美子さん
プロフィール
大学では考古学を専攻。県の職員として、発掘調査等に携わった後、長きにわたり世界遺産登録推進を担当。令和2年から世界遺産登録推進室長として活躍し、定年退職後も専門調査員として今年3月まで従事。
新潟県が佐渡市と共同で世界遺産登録を目指すことになった平成18年から令和6年3月まで、登録推進に関わってきました。何度も推薦枠に選ばれず、推薦書の足りない部分を指摘されて再度取り組んだりと、時には落胆することもありましたが、佐渡市の皆さんと一緒に頑張りました。担当になって初めて金山などを見て回ったときは、こんなに素晴らしいものが佐渡に、新潟にあったのかと驚きました。手工業の時代の金生産の遺跡などは、今後も調査・整備が必要ですし、その世界的な価値をどう伝えるかがこれからの課題だと思います。県内初の世界遺産であり、佐渡だけでなく新潟県、日本全体で守っていかなければいけない遺産です。
県民の皆さんもぜひ、足を運んでいただきたいと思います。
佐渡島の金山にまつわる伝統文化
無名異焼(むみょういやき)
相川金銀山では、坑内から鉄分を多く含む赤い土「無名異土」が採れました。もともとは止血などの効果がある薬として使用されていましたが、19世紀前半、陶土に混ぜて茶器や食器を焼くようになり堅い焼物である無名異焼を作ることに成功しました。
無名異練上花紋壷 伊藤赤儘(五代伊藤赤水)
相川まつり
翁のお面を付けた豆蒔き(踊り手)が太鼓とともに鉱山町の街路をまわり、各戸の繁栄を願って桝を持って舞い踊ります。太鼓を叩くのは相川上町地区の大工町に住む金穿大工たちがつとめてきたもので、その所作は、鎚とタガネで鉱石を掘る様子を真似たものだとも言い伝えられています。
棚田と金山
佐渡での稲作は、用水が得やすい平野の河川沿いから始まりました。16世紀末に入ると相川金銀山が発見され、全国各地から富を求めた人々が佐渡を目指し、人口が爆発的に増加しました。急増した人口のため、新田開発が促され、海沿いや海岸段丘の上から山間深くまで耕す佐渡独特な棚田の風景を作りあげました。今では世界農業遺産に登録され、美しい棚田は世界に誇れるものとなっています。
世界農業遺産についてはこちらから
小倉千枚田
江戸時代に金山が繁栄し、人口急増による米不足を解消するために開墾されました。勾配が急で一枚が細長いことが特徴です。現在は棚田オーナー制を取り入れ、管理・保全活動に取り組んでいます。
片野尾棚田
海やその先に新潟市が見える棚田です。また、日本で最後に残った野生トキが生息した豊かな自然環境で、トキの餌場づくりや無農薬・減農薬米作りに取り組んでいます。